運命の悪戯という言葉は、思った以上に身近に存在するものなのかもしれない。


そう、運命なんてものは本当に分からないものだ。思い通りに行かないかと思えば、拍子抜けしてしまうくらいあっさりと願いが実現してしまうなんてこともある。呪っていた運命に感謝をしなければいけないかもしれない。本当に都合の良い考えではあるけれど。


……ただ。その状況を与えられたとしても、物事が予測通りにすすむとは限らない。あれだけ期待していた状況でも、直面すればそんな想いなんて紙くずよりも簡単に吹き飛んでしまうものらしい。


「全く、本当に最低ね」


そう、例えばこんな言い草を聞いては腹立たしいことこの上ないだろう? それも出会い頭の第一声が、だ。


「そんなことを言われるようなことをした覚えはないけどな」


負けじと言葉上平静に返してみる。感情は押し殺していると思うけれど、言っていることは喧嘩腰と取られても仕方が無い。


「あたしの空間に入り込んだでしょ。アンタが来なかったらここは私だけの場所だったの」


「オマエの所有地じゃないんだから勝手だろ」


「大体、まだ入院してたの? とっとと出て行きなさい。アンタの面倒みてる分だけ、看護婦さんが負担でしょ」


「見ての通り重症だろ? オマエこそとっとと家に帰ればいいじゃないか」


何て、低次元な言争いなんだ。心のなかでそんな口げんかに乗っている自分に呆れてしまう。頭を抱えそうな感情とは裏腹に、ギプスを叩いて重症ぶりをアピールしてしまう。


俺たち二人を除いて誰も居ない屋上での罵り合い。車椅子の上だからかもしれないが、もし自由に動き回れるならば蹴りの一発でも入れられているかもしれない。そんな敵意さえ感じられる、最悪の邂逅だった。


初めはラッキーだった。期待通りに春夏さんが面会時間と同時に現れたのだ。有無を言わさず手伝って貰って、院内を車椅子で散歩した。手始めに病院の売店で漫画雑誌と何個かの菓子類を購入する。


売店で売っているのだから問題は無いはずなのだが、ベッドサイドに山のようにお菓子が積まれていると、何故か看護婦さんに冷たく突き刺すような視線を感じる。もしかしたら気のせいかもしれないが、点滴の際など実際に首のあたりがムズムズとすることさえあるのだから。


そんなこんなで車椅子を押して貰って、最後は希望通り屋上に連れて行ってもらった。


「それじゃあしばらくしたら戻ってくるから。タカくん、風邪引かないようにね」


「はい。上に羽織ってますから大丈夫です」


春夏さんは俺に自由な時間をくれた。外に出ることがどれだけ嬉しいことなのか、春夏さんも傍目にみていて分かるのだろう。そんな何気ない心遣いが嬉しかった。金属製のドアが閉じられるてからじっくりと周囲を見回すと、屋上に居るのは俺は一人。


この広い世界が自分だけのものになった気がして、爽快感が体を駆け巡った。春風が心地良い。外気が暖かい為か、風邪に冷たさを感じなく、心地良い。


ふと視線を転じれば、以前郁乃が居た給水塔が目に入る。そういえばその裏手からは街を眺めたことが無い。良い機会だと思い、最近ではすっかり手馴れた手つきで裏手に回り、


―――そこに、彼女が居た、という訳だ。


「アンタと違って繊細な体なのよ。怪我してるだけなら家で大人しく寝てればいいのに」


「繊細な体に外の風は毒じゃないのか? 病室のベッドで横になっていればいいんだ」


視線が交錯する。もしも可視的なものならば、二人の間に火花が飛び散っているに違いない。


無意味な小競り合いが沈黙の中で繰り広げられる。それこそどれだけ時間を使っているのか分からないが、気分転換できた屋上で気分を害しては世話が無い。


生憎と無駄に出来るほど時間に余裕があるわけでもないし、年上としてこちらから折れるべきなのかもしれない。


疲れを感じながら視線を向かい合っていた郁乃から外して景色を眺めた。こちらは病室の窓からは見えない景観。それに窓からでは端にしか見えなかった堤防沿いの並木道が綺麗に見える。


残念ながら一番の見ごろだった桜は既に散り、青葉しか残っていないがそれでも十分に心を和ませるに足りるものだ。


「……ここ、あたしの場所なんだけど」


「別にいいだろ。減るもんじゃないんだし」


「……勝手にすればいいでしょ」


フン、と鼻を鳴らして顔を反らした。俺の顔が視界に入らないようにせめてもの抵抗だろうか。そもそもどうしてこんなにまで敵意剥き出しの対応をされるのか未だに分からない。安っぽい挑発にのってしまう自分も自分で反省するべきだと思うけれど、頭を下げる気にはならないな。


しばし無言のまま時間が流れた。


お互い同じ空間に居ることは分かっているのに避けている。あたかもお互いがその場に存在していないかのごとく。


初めは今までとは違う眺めを楽しんでいられたのだが、それがひとしきり済んでしまえば気まずい空気が流れるだけで、そんな空気に慣れていない俺はとまどってしまう。


今までは、それこそこのみや雄二、タマ姉と一緒に毎日を過ごしていたわけで、逆に何も会話をしていない時間のほうが珍しかったのだ。つまりこんな沈黙は初めてで、ただでさえ会話が少ない生活に不満を覚えていたのだから、迷った挙句に会話になりそうな話題を振ってしまった。


別に何か考えていた訳でもなくて、単に口をついてでた言葉が始まり。


「あのさ、いつもここに来てるのか?」


「……別に、関係ないでしょ」


冷たく言い放った後、我慢し難いという様子で若干顔を歪める。


「―――そう、前にアンタに会ってから全然来なかったの。今日は気分が向いてきてみたらコレ」


「悪かったな」


「本当に最悪よ。何でアンタと顔を合わせなきゃいけないの」


「それは俺も同じだ。ここに来たの、今日が二回目だし」


そう言うと、少し驚いたような顔をしたあと郁乃は正面を向いて黙り込んだ。もしかしたら、言い争い以外にきちんとした会話が成立したのはこれが初めてかもしれない。


……尤も、今の会話もまともな会話とは決して言えない類のものだったけれど。


「ここの景色、好きなのか?」


こんどは返事までにやや間があった。一瞬の逡巡のようなものが窺えたが、その色もたちまち掻き消えてしまった。結局残るのはいつものように眉を吊り上げた表情。


「―――別に。あんまり見えないし」


「見えない?」


「視力が良くないの。元々こんなだったわけじゃないけど。……って、なんでアンタにこんな話しないといけないのよ」


一層不機嫌そうな顔になる。


そういえば、郁乃は俺みたく怪我をしている訳じゃない。線が細いことからも、きっと何かの病気で入院生活を余儀なくされているのだろう。視力が悪くなった、というのもそれに関係があるのかもしれない。


とはいえそんな踏み込んだ話しを、会って二回目、しかもあまり良い印象を抱かれていない相手なんかにするはずもないし、第一体のことなんて一番のプライバシーだ。軽々しく聴くことは出来ない。


「……視力って、どれくらい悪いんだ?」


「全然。その顔もはっきりとは見えない」


「何だ、じゃあここに居ても景色なんて見えないんじゃないか」


「別に景色を眺めに来てるわけじゃないから」


この場所は一番見晴らしが良い場所だから、てっきり郁乃は好きでこの場所にいるのかと思ったのだが。そんなことは関係なかったらしい。いつもここに居るのは、人に見られない静かな場所だからだろうか。


しかし、それでは郁乃は前回ここに居たときも桜並木を見ていた訳ではなかったのかもしれない。とても綺麗だったのだが、桜が咲いていたことにすら気がついていないかもしれないな。視力が悪いんじゃ花が咲いていても色しか分からないだろうし、残念なことにここから見える家の屋根は赤系統の色がよく使われている。


もったいない、とは思うが郁乃だって好きでそうなった訳じゃないだろうし、慰めの言葉なんて論外だろう。この短いやり取りの中でも大体性格は掴めている。


仮に同情するようなことを口にすれば最後、きっと郁乃は二度と口を開かないのではないだろうか。何も分からない相手に、勝手に可哀想と思われるのだから、郁乃のようにプライドの高そうな人間にそれはタブーだろう。


「そうか」


だから。そんな簡単な返事しか返すことができない。それでもその選択は賢明だったようで、少なくとも郁乃が機嫌を損ねることは無かった。


ふと、腕時計に目をやると、屋上に来てからそろそろ三十分が過ぎようとしている。きっと春夏さんが迎えに来る頃だろう。


「―――それじゃ、先に帰るな」


「とっとと帰れ」


まただ。この口の悪さには辟易とするしかない。


「またな、郁乃」


「うるさい『バカ明』」


それっきり郁乃から言葉が発せられることは無かった。


ただ。


またな、という言葉に応酬が無かった。少なくとも二度と会いたくない、ということではないようだ。そんな些細なやりとりが嬉しくて、頬が緩んでしまう。


もしかしたら、この瞬間にも俺の心は色づき始めているもかもしれない。

 


―――今日の収穫。


 

―――どうやら、郁乃とは話が出来るみたいだ。

 


俺は車椅子を押して進む。


今は、ただ真っ直ぐ前を見据えて。